夏からあっという間に
秋は素通り、
年が明けてしまいました。
令和7年、2025年1月1日です。
この氣儘なブログを見てくださって
ありがとうございます。
最近読んだ
茨木のり子の詩集の中に
「マザー・テレサ」というタイトルの詩があって
とても印象的でした。
マザー・テレサの最後の言葉は
「…言葉が多すぎます」
だったそう。
しばらくしたら
谷川俊太郎が亡くなったと
ニュースで見て、
2021年頃のインタビューが
私のYouTubeに上がってきました。
そこにも
「言葉が多すぎる」と、
彼の語った言葉が残っていて、
量ばかりが増えて
質が落ちている、と。
約25年経っても確かに
情報ばかりが交錯する中で、
私たちはさも
自分の言葉かのように
「語る」ことができる。
それどころかますます
本人にも見分けが
つかないくらいに
言葉を操る事ができる。
まるで
何者かになったような氣になって。
こうやって私がブログを書く事は
誰かに届けたいからであり、
それは私もまったく知らないところへ
知らない時に届いたりするからこそ、
私は私の言葉で伝えたいし、
私の経験を通して
感じた事に言葉を充てたい。
それは
「聞いてほしい」とは違って、
誰かを「ホッとさせる」ような
安心感を与えるものであって欲しくて
ここに置いておくね、
みたいなカジュアルな感じが良いなー
って思っているから、
改めてキュッと
氣が引き締まる感覚でした。
一方で、今日。
糸井重里が素敵な俳優に
インタビューしている
とても素敵なYouTubeを見ました。
(何かといえばYouTube付いてるこの頃)
その俳優は
表情も声も選ぶ言葉も、
どこかで見かけた
演じてる姿とも、
モデルとして切り取られた
写真の姿とも違って、
透明感があって自由で
たくさんの苦労を糧にして
素敵な歳の重ね方をしたんだなぁと
思いました。
あ、無意識のうちに
少し前に見た他のYouTubeの
他の俳優と比較してたんだ、
と今氣がついた。
その人も苦労はしてるはず
だけど、血肉には…
まだその途中なのかな?
どちらも俳優だし、
インタビューする側で見せる感じも
変わるだろうけど、
なにか絶対的に違うものが
そこにはあって。
言葉以外にも
見たり聞いたり
雰囲氣でも、
私達は感覚で
いろんなものを受け取って
いろんなフィルターを通して
その人を自分の内側に
取り込んでる。
前者は詩人の二人、
少ない言葉に込める思いのエネルギーが
鮮烈だな、と思ったし、
後者は俳優の二人、
演じてなくても自分を磨いた分だけ
姿に現れるんだな、と思った。
私達は人の目に
どんな風に写ってるかは
分からないけど、
どんな風にありたいかは
分かる。
どんな風に在るのが自分好みなのか
いつも意識することはできる。
今日の在り方が
明日の姿になる。
そうやって
あっという間に一年が過ぎる。
わー
一日をまた重ねたな。
そうやって
明日もまた重ねる。
同じようで
全然違う、
まっさらな一日を。
だから今を大切にしよう。
そうして
一年が過ぎて、
あー今年もいい一年だったな
って2025年を振り返りましょう♡
今年も、ha-mon共々
どうぞよろしくお願いいたします