安心して見守れる

書くことが好きな私。

 

幼稚園から日記は

ずっと書いてきたし

小論文は得意だった。

 

その後、

人に見せるようなものを書くことなどなく

長く忘れていたけど、

ブログを書くと

クライアント様や友人知人から

見てるよーって

良いねって

伝わるって

言ってもらえることがあって

書くことが好きだったと

思い出す。

 

 

子どもの誕生日には

毎年バースデーカードに

熱い愛の告白をしてきた笑

(18歳まで)

次男17歳の頃。

読みながら涙する彼。

 

とあるタイミングもあって

泣かせるほどの手紙を書く

私の文章力。笑笑

(タイミングの影響大大大)

 

自分が

言葉の選び方に細かい分、

学校の反省文、

大学受験の志望利用書、

などなど

子どもの書く文章には

敏感になりがちで

もうちょっとこう書くと

氣持ちが伝わるのでは、

とか思っちゃう。

 

そんな折、

長男が

ただいま進路模索中で、

アピールしたい教授へのメールを

見せてもらう機会があった。

 

それは

 

 

‥え、私書いた⁇

って思ったくらい。

 

ゴメン。ジョーダン。

 

とにかく

すごい良かった。

 

それはそれは

豊かな表現力を用いた

素晴らしい文章で

自己アピールされてて、

 

それを読んで

この子も

自分で道を切り開けるな

と夫婦で喜びあった。

 

決して平坦な道でなく

ますます険しい道に

なったとしても、

彼は自分で自分の行きたい道を

切り開くことができる。

 

安心して

見守れる。

 

そう思えた

幸せなひとときでした。

ふわっと軽ーく

満月ですね。

 

感謝と別れで

自分を振り返るタイミング。

 

どんな自分でいたいか?

どんな自分はイヤか?

 

 

私は

「ふわっとかるく」

が自分との合言葉。

 

なので

重い自分はイヤです。

 

 

どんな時重くなるか?

 

小難しく考えてしまって

こじれてる時とか、

(くだらない夫婦の言い争いからケンカになる時だいたいコレ。どうでも良い話から深刻にしていく。相手のエリアを掻き乱す)

かるーく

「大したことない。やめやめ。」

って重い自分と

ふわっとお別れします。

(大した事ある!ひどいこと言われた!ていうのは全却下。重い。)

 

先を思って不安になる時とか

(将来どうなるんだろう。というような答えのない問いかけに心が無闇に重くなる)

 

かるーく

「あほらし。やめやめ」

と重たい自分と

ふわっとお別れします。

(そうは言っても真面目に考えないと!とかいうの無し。ふざけてていい。)

 

こんな調子。

理由とか納得とか

要らんのよ。

お別れしたらいいだけ。

 

いいの。

軽くて

楽しい方が好きだから。

 

そういう望み方です。

実行の仕方も。

 

それは

イヤを避けるのとは違う。

好きを選んでるんだ。

 

ここを履き違えない

芯の強い自分でいたい。

最近万年筆。

再々再デビューしました。

めちゃんこ書きやすくてかわいい♡

Kaweco、お氣に入りです

こういう

満月の時とかにも

さらっと書いとく。

じっとり何ページも書かない笑

人生に深刻にならない。

 

「人生は茶番」

って言ってた

満島ひかり 好きだなぁー

 

斜め上から

自分のことおもしろがって

見てる感じ。

私もそうありたいから

常に意識してる。

 

この先のビジョン

私と夫は今

この先50年どう生きる?

という節目にいます。

 

子ども達が巣立ち、

夫婦2人の暮らしの中で

どんなふうでありたいか。

 

夫婦として。

個人として。

 

そう思った時に、

私たちに起きた

この数ヶ月の出来事は

起こるべくして起きてるなぁ

と感じます。

 

夫婦の絆は

今までにないくらい

深まったし、

私は謙虚な氣持ちで

常に感謝を持てるようになった。

夫婦仲良く過ごせたらいいし、

互いを支え合って、

尊重しあえたらいいな。

 

私個人としては

ゆったりとエレガントに

歳を重ねたい。

女性らしく、

好奇心と

恥じらいも

忘れたくないな。

 

こんなふうに

イメージをもって

この先をすすむのと、

漠然とした不安だけで

生活するのとでは

雲泥の差!

 

こんなことも

きっかけがなかったら

思いつかなかっただろうなぁ

 

ありがたい。

 

お友達からおせちのお裾分け♡

甘さに偏らないおせち。

なんて美味しいのー

 

ツヤツヤピカピカ

日本って美しい。

 

アロマで育てた子

次男の

春からの進学先が

決まったので

ふと

ちょっとずつ

一人暮らしに必要な

アロマを揃えてこうと思って

なにがいるー?

と本人に聞いてみた。

 

彼は

私をアロマと出会わせてくれた子

そして

アロマで育てた子

アロマで私も育ててくれた子

私をこの道、

進むべき道に乗せてくれた子

 

 

その子が選んだのは‥

 

ラベンダー

ティーツリー

オレンジ

ペパーミント

 

びっくり!

私が8年続けたオリジナルの

アロマ講座で

最初にオススメする

基本のアロマ4本を

リクエストするではないかっっ

 

すごいねー

基本押さえてるねー

ちゃんと身についてるね

 

もうそれ聞いたただけで

幸せでした♡

 

あとは

シーブス(抗菌抗ウィルスのブレンド)と

パナウェイ(抗炎症・鎮痛のブレンド)

足してあげよかな。

 

るるる〜〜

 

言葉の周り

茨木のり子と谷川俊太郎の

「言葉」についての言及から

思った事が

もう一つあります。いっこめはこの投稿

 

子どもらが小さい頃、

言葉で伝える大切さを

いつも伝えていた時期が

あって。

 

なぜならそれは

言葉の表現によって

本人が感じる感情の豊かさが

圧倒的に変わると思っていたから。

 

今のように

いいね!悪いね!

二択しかないとか

「ムカつく」

「かわいい」

とかそんな一言を

いつも使ってたら

自分のもっと深い感情が

自分で分からなくなる

 

モヤモヤとした

この感情、

どう表現する?

というのは

小さいころからの積み重ねで

 

たくさん経験して

いろんな感覚を知って

いろんな感情を受け取って

分かるもの。

いろんな「ムカつく」があって

いろんな「かわいい」があって

それ以外もあること。

 

そのために

外で自然と触れ合って

絵本を読んで

絵を描いて

人や何かとコミュニケーションを取る

 

自分を理解するために

言葉を尽くして

思ってる事や

感じてる事を

言葉に充てることは

とても大切だからね

 

もし言葉が苦手でも

音で表現したり

踊りで表現したり

他の表現方法があれば良い

 

だけど日常に一番身近なものが

「言葉」だと思ったから、

私は子どもらに

どうおもってる?

どう感じてる?

すぐに分からないって諦めないで

なんでもいいから

言葉にしてみようね。

じっくりと待って

伝えてきたつもりです。

 

表現しようとトライすると

表現できなかった分も含めて

感じる心が育まれる。

(初日の出から数日遅れのご来光が美しい)

 

 

だけど今思えば

私は言葉を使うのが好きで

なんでも言葉を尽くして

伝えられるのではないかと

思っていたから

そうしていたのかも知れない。

 

言葉にできることなんて

目で見えるものが限られているように

そんなには多くない、

と氣付いたから。

 

見えるものの奥には

たくさんの

見えないエネルギーがあって

 

言葉の周りには

言葉にならない世界が

どこまでも広がっている。

 

ちっぽけな自分と、

無限の愛のエネルギー。

そんなふうに感じたから。

 

だから今

言葉が多すぎるのは、

私たちは

言葉に頼りすぎて、

見えるモノに頼りすぎて、

感じられるはずの

たしかに「在る」ものを

たくさん取りこぼしている

ってことだと私は思う。

 

それに警笛を鳴らしてくれているのが

「言葉が多すぎる」という

メッセージだと思う。

 

言葉は大切だけど、

その限界も知っておくことは

同じくらい大切。

 

それが分かって

子どもの成長と共に

私もすこしは成長できているかなぁ

 

だいすきー

年越し前、

とある場所で

両親や弟も含めて

家族写真を撮ってくれる

機会があって

 

それがすごくすごくすごく

良い写真で

びっくりしてます!!

(ごめん見せられへん)

 

かなーり

プライベートすぎて、

切り取れるところもないくらい

なのでお見せできないのが

残念なんだけど、

 

その写真

「大好きな人を思い浮かべて

『大好きー』って言ってくださいね」

と言われて、

シャッターを押してくれたもの。

 

いやーー

その効果たるや!

 

これからは

絶対これで

写真撮ってもらう!

って母と誓ったくらいです笑

 

(ほこりちゃん@すみっコぐらし。

義母からのクリスマスプレゼント♡)

 

その日は

久しぶりに集まれた

喜びの記憶は薄くて

年越し前の

さっぱりとした氣持ちでもなく

なんつーの

どっちかっていうと

絶望感いっぱいの日

(安心してください。その後一変してます)

 

だけど、

写真は全然現実を切り取ってなくて

幸せいっぱいのみんないい顔の

誰もが素敵な写真

って言ってくれる

良いお顔の面々がそこには残ってて。

 

現実とは

記憶とは

なんぞや…

 

と混乱する。

私だけでなく

家族皆んなが。

 

けど実際

現実は追いついて

写真通りになって

記憶もそのうち

塗り替えられてく。

 

現実ってなんて不確かなんだろうか。

 

と本質を見た氣持ちです。

だから、

今のうちに文字にしておく。

あれは幻ではなかった、と。

 

 

 

 

その時は

そう感じても

記憶は塗り替えられる。

これは過去を変えられる

という真意だし、

 

今感じた事は

事実であっても

今私が感じただけ

だし、

 

どれがほんとって

ないっていうか、

自分次第でいいっていうか。

 

生きるってのは、

どうありたいか

先に決めちゃって

勝手にクリエイトしていい

って事か!

 

そういうこと

ですです。

 

 

 

これは是非

リアル体験を聞いて欲しいし、

みんなにしてほしいなって

思ってます。

 

 

でもとにかくここに

どんな時も

ふっと最上の笑顔が作れる

写真撮影方法、

は伝授したぞ!

 

どんな時でも

笑顔の写真は

あって良い。

 

もちろん

ネガティブも認めた上で。

 

 

瞬間で感じた後、

残った感情は

もう塗り替えていい

どっちでもいい残像なんだ。

 

どーせなら

消えて欲しい感情は消えて、

良い思い出だけが

残ったらどんなに幸せか。

(というわけでもないんだけど)

 

私たちはいつでも

幸せであっていいのだ。

 

瞬間的な感覚も

塗り替えた感情も

全部自分だけのもの。

 

感覚は唯一信じられる。でも引きずれない。

感情はまやかし。そして塗り替えられる。

そんな感じで良い◎

 

「良くなるためにはどちらを選ぶか」

生きるための

指針ともなる言葉を

授けてくれた方

についての以前の投稿

 

そんな事で負けていてはいけない

 

これ以外、他にもこの方からの

心に刻んでるフレーズが

いくつかあります。

 

最近思い出して、

また背中を押されたのは、

 

「悪くならないように、

ではなく

良くなるためには

どちらを選ぶか?

と考えるのが大事」

 

というメッセージ。

(自然栽培のみかんはマストハブかつベストバイ)

 

 

Bestを選ぶというのは、

ワースト1を避ける

ということとは全然違う。

 

でも無意識で

悪くない=良い

としてしまってる事って

すごく多いと氣づかされる。

 

氣付かないと、変われない。

そして

氣付けば変われる。

 

自分にとってのベストを選べているか?

一旦黙って

そっち側から俯瞰してみると、

発見がある。

 

避ける事は

決して最善ではない。

 

 

 

最初に

自分のありたい姿を

無制限に決めてみる。

 

まずは謙虚に。

それから純粋に。

 

そういう姿勢は

思いがけないスピードで

何かが

解決を後押しして

くれたりする♪

 

 

つまり

問題を解決したいときは

回避する方法を探すより、

自らのありたい姿を

まず設定する方が、

解決への導きが早い♪

 

こういう時は

まず最初に

思い切りポジティブに振り切る

のが良い◎

 

力まずに

ふわっと♪

 

そうすると

ポジティブが引き寄せられる◎

 

 

簡単でシンプルな事は

つい自ら沼に足を突っ込んでしまって

もがいてしまいそうになるけど、

 

本質はいつもシンプルだと

眉間のシワを伸ばして

ゆる〜っとしたら

簡単に思い出す。

 

だけど、また忘れちゃうから

こんな風に

人からもらったメッセージで

ハッと我に返ればよい。

 

 

 

そう、自分でわざわざ難しくしない。

大丈夫。

本当のことは

簡単。シンプル。単純なんだから。

大丈夫。

大丈夫。

あけましておめでとうございます!

夏からあっという間に

秋は素通り、

年が明けてしまいました。

令和7年、2025年1月1日です。

 

この氣儘なブログを見てくださって

ありがとうございます。

 

 

最近読んだ

茨木のり子の詩集の中に

「マザー・テレサ」というタイトルの詩があって

とても印象的でした。

 

マザー・テレサの最後の言葉は

「…言葉が多すぎます」

だったそう。

 

 

しばらくしたら

谷川俊太郎が亡くなったと

ニュースで見て、

2021年頃のインタビューが

私のYouTubeに上がってきました。

そこにも

「言葉が多すぎる」と、

彼の語った言葉が残っていて、

量ばかりが増えて

質が落ちている、と。

 

 

約25年経っても確かに

情報ばかりが交錯する中で、

私たちはさも

自分の言葉かのように

「語る」ことができる。

それどころかますます

本人にも見分けが

つかないくらいに

言葉を操る事ができる。

まるで

何者かになったような氣になって。

 

こうやって私がブログを書く事は

誰かに届けたいからであり、

それは私もまったく知らないところへ

知らない時に届いたりするからこそ、

私は私の言葉で伝えたいし、

私の経験を通して

感じた事に言葉を充てたい。

 

それは

「聞いてほしい」とは違って、

誰かを「ホッとさせる」ような

安心感を与えるものであって欲しくて

ここに置いておくね、

みたいなカジュアルな感じが良いなー

って思っているから、

改めてキュッと

氣が引き締まる感覚でした。

 

一方で、今日。

糸井重里が素敵な俳優に

インタビューしている

とても素敵なYouTubeを見ました。

(何かといえばYouTube付いてるこの頃)

 

その俳優は

表情も声も選ぶ言葉も、

どこかで見かけた

演じてる姿とも、

モデルとして切り取られた

写真の姿とも違って、

透明感があって自由で

たくさんの苦労を糧にして

素敵な歳の重ね方をしたんだなぁと

思いました。

 

あ、無意識のうちに

少し前に見た他のYouTubeの

他の俳優と比較してたんだ、

と今氣がついた。

その人も苦労はしてるはず

だけど、血肉には…

まだその途中なのかな?

 

どちらも俳優だし、

インタビューする側で見せる感じも

変わるだろうけど、

 

なにか絶対的に違うものが

そこにはあって。

 

言葉以外にも

見たり聞いたり

雰囲氣でも、

私達は感覚で

いろんなものを受け取って

いろんなフィルターを通して

その人を自分の内側に

取り込んでる。

 

 

前者は詩人の二人、

少ない言葉に込める思いのエネルギーが

鮮烈だな、と思ったし、

 

後者は俳優の二人、

演じてなくても自分を磨いた分だけ

姿に現れるんだな、と思った。

 

私達は人の目に

どんな風に写ってるかは

分からないけど、

どんな風にありたいかは

分かる。

どんな風に在るのが自分好みなのか

いつも意識することはできる。

 

今日の在り方が

明日の姿になる。

そうやって

あっという間に一年が過ぎる。

 

わー

一日をまた重ねたな。

そうやって

明日もまた重ねる。

 

同じようで

全然違う、

まっさらな一日を。

 

だから今を大切にしよう。

 

そうして

一年が過ぎて、

 

あー今年もいい一年だったな

って2025年を振り返りましょう♡

 

今年も、ha-mon共々

どうぞよろしくお願いいたします